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コンピュータの歴史


このページでは、コンピュータの歴史を紹介したいと思います。

写真の右横に星印(*)があるものは、平成13年3月6日~平成13年6月3日まで東京の国立科学博物館で行われた『情報世紀の主役たち』という企画展で展示されていたものです。
国立科学博物館の方に許可をとり撮影したものを、ここに掲載しました(掲載許可申請書・認可済み)。
デジカメの小さな液晶表示では『くっきり』と表示されていたので手ぶれを確認できず、残念ながら少々手ぶれしてしまった写真しかないものもありますが、いずれも情報関係の教科書で名前が紹介されているものばかりで、それらを実際に見学することができたという貴重な体験をさせていただきました。

大変意義深い企画展を開いていただけたことはもちろんのこと、写真撮影及び画像の掲載を許可していただいた国立科学博物館・館長並びに職員の方々に感謝いたします。

まだ、写真や説明の足りない部分もありますが、公開することにしました。

ご自分が使われていた(または、現役で使われている)パソコン(PC-8001、PC-9801(無印)、IBM PC、IBM PC/XT IBM PC/AT IBM PS/2、シャープMZ80B、FM TOWNSなど)の画像データがあり、提供していただけるものがありましたら下記のメールアドレスまでご連絡下さい(著作権的に問題ないもの (ご自身が実物を撮影されたもので、このページで公開することを許可して頂き無償で利用してよいというもの)に限らせていただきます)。
連絡先 : bunsugi@bunsugi.ed.jp




【機械式計算機の誕生】





パスカルの計算機・『パスカリーヌ』

1642年にパスカルが作成した世界最初の機械式計算機です。

税務官吏であった父が膨大な計算に苦しむのをみて、1639年にパスカル(当時16才)が考案し、3年かかって作成した計算機です。

10年かけて作成した53台のパスカリーヌは実用に耐えるものではなかったようで、1台も売れなかったとのことです。(当時は機械全般に対する信頼が薄かった)。

しかし、補数を加えて引き算を行う方式など、その考え方は現代のコンピュータ原理に使われています。




バベッジの階差機関(ディファレンスエンジン)

1822年にイギリスのバベッジが制作した階差機関の主動作装置の一部です。

その後、1834年には今日の電子計算機と同様の原理に基づく解析機関を考案していますが、残念ながら、当時の技術では完成しませんでした。




















プロカルキュラー

ドイツで作られた計算器具で、日本にも輸入されたが、日本には算盤があったために普及しなかったようです。











クルタ計算機

携帯性に優れた機械式計算機であったようです。















オドナー計算機(オドネル計算機)

ロシア人オドナー(オドネル)がスエーデンで興した会社にて作成された計算機です。

世界で初めての計算機を作ったというわけではありませんが、当時としては小型化に成功し、実用できるものとして評価されたようです。

オドナーは自分が作成した計算機を別の人が作ることを誰にでも許可したので、多くの人がオドナー計算機を参考にしました。
その結果として、この計算機は世界の計算機に大きな影響を与えたようです。

このような点が祟ったのでしょうか、結果的には会社は買収されてしまったようです。

最初にこのページを記載したときにはタイガー計算機(正式名称はタイガー計算器)として紹介していたのですが、『機械式計算機の会 事務局の渡辺 祐三氏』より「これは タイガー計算器ではなく、オドナー計算機です」というご指摘を受け、調べ直して再度記載したものです。




ブルンスビガ計算機(Brunsviga)

オドナー計算機を販売していたオドナー社とその特許を、ドイツのブルンスビガ社が買収して作成したものです。

「情報世紀」の主役たちの公式パンフレットには『ブルース・ビガー計算機』で紹介されていましたので、私もその記述に従ったのですが、正式にはブルンスビガ計算機というようです。

機械式計算機の会 事務局の渡辺 祐三氏』より、「この計算機はブルンスビガ計算機、通称『ブルンスビガ』であって、ブルース・ビガー計算機とはいわないのではないでしょうか」とご指摘を受けました。

前述のように、「情報世紀」の主役たちの公式パンフレットには『ブルース・ビガー計算機』で紹介されていますので、その記述に従ったのですが、これをきっかけにいくつか調べ 、正しいと思われる名称に変更致しました。

現時点(2005.07.05)では国立科学博物館に確認していませんが、『ブルース・ビガー計算機』というのは誤植かも知れません。






タイガー計算機(正式名称は『タイガー計算器』)

コンピュータの歴史の中では、いろいろなところで、日本人が関係していますが、ここでも『大本 寅次郎』という日本人が関わっていました。

余談ですが矢頭良一という人が、タイガー計算器に先駆けて『自働算盤(日本初の機械式計算機)』というものを作成しています。

この辺のことは森鴎外(旧字体が表示できません)の『小倉日記』に紹介されているようです
私は理科系の人間ですが、ちょっと読んでみたくなりました。


「情報世紀」の主役たちの公式パンフレットには『タイガー計算機』として紹介されていました。
そのため、このページでも『タイガー計算機』という名前で紹介してきました。
しかし、当時は『タイガー計算器』として販売されていたこと、そして、既に機械式計算機は製造していませんが、この会社は今も『タイガー計算器株式会社』として存在しています。

また、販売部門を担当した『タイガー計算器販売株式会社』は社名を『株式会社タイガー』と社名変更して、この会社も現存している会社です。

一般的には『タイガー計算機』で通っていますが、このようなわけで私のページでは正式名称を『タイガー計算器』と記載することにしました(固有名詞としては『タイガー計算器』であるという判断です)。

上記のこと(タイガー計算器という名称のこと)を教えて頂いたのも『機械式計算機の会 事務局の渡辺 祐三氏』です。



タイガー計算機(正式名称は『タイガー計算器』)

「タイガー計算器はBrunsvigaの影響を受けているようですね」という私のコメントに対して、『機械式計算機の会 事務局の渡辺 祐三氏から教えて頂いたことによると

a.   タイガー計算器は初期のものはBrunsvigaに似ていた(影響を受けたということ)
b.   昭和に入ってからのものは、独自の機構が加わり、Brunsvigaの後継機とは別のものになっている

つまり、初期のものは確かにBrunsvigaの影響を受けているが、その後、独自に発展していき、全く別のものになったということのようです。

富山大学理学部・数学科・情報数理講座・幸山研究室』というページにタイガー計算器シミュレータがあります。

株式会社タイガー(旧・タイガー計算器販売株式会社)』のページに使用方法(取り扱い説明書)があります。

実機がなくてもどんな感じで操作したのかは分かります。
チャレンジしてみてはいかがでしょうか。



マーチャント計算機

最初にこのページを公開したときには『モンロー計算機(マーモセット計算機(?))』として記載しました。

撮影した計算機の説明ラベルには『マーチャント計算機(実際には正しい名前はマーチャント計算機ですが、私は写真に写された読みにくい文字をマーモセット計算機と読んでしまいました)』と書かれていました。

「情報世紀」の主役たちの公式パンフレットにはモンロー計算機と書かれているのですが、写真に写された説明用ラベルには違う名前(マーチャント計算機)が書かれていましたので、 最初は『モンロー計算機(マーモセット計算機(?))』と紹介していたのです。



機械式計算機の会 事務局の渡辺 祐三氏』から、「この写真はマーチャント計算機であってモンロー計算機ではありませんよ。マーチャント計算機とモンロー計算機は全くの別物です」というご指摘を受けたので、再度調べ直してみました。
「情報世紀」の主役たちの公式パンフレットのモンロー計算機として説明されている写真(つまり、左の写真に写っているものと同じもの)をじっくり見てみると本体左側面に『Marchant』という刻印が認められました。
また、インターネット上を調べてみると、モンロー計算機には『MONROE』というロゴがついていることも分かりました(下のリンク集を辿るとモンロー計算機の写真が見ることができます)。

調べた結果、この写真の計算機は『マーチャント計算機』であることが分かりましたので名称を訂正致しました。

上述したように、この写真と同じものとして、「情報世紀」の主役たちの公式パンフレットに説明されているものは実は『マーチャント計算機』でてあって、『モンロー計算機』というものは全く別物のようです。

現時点(2005.07.05)では国立科学博物館に確認をとっていませんが、どうやら誤植のようです。



マーチャント計算機

前述のように左の写真はマーチャント計算機ですが、以下にモンロー計算機の写真が見られるページへのリンクを張らせて頂きました(モンロー計算機というのはこんな感じのようです)。









モンロー計算機の写真があるページへのリンク集
『これなぁに?』のページから
http://www.geocities.jp/kyo_oomiya/calcu.html

『東京理科大学近代科学資料館のコンピュータ博物館』のページから
http://www.rs.kagu.sut.ac.jp/~infoserv/museum/si/p23-3.html

『算数・数学(教育)メーリングリスト』のページから
http://www2.hamajima.co.jp/~mathenet/koubou/koubou.htm

『丸善のページ』から
http://www.maruzen.co.jp/home/history_3.htm リンク切れ(写真があったと思うのですが・・・)

http://www.maruzen.co.jp/corp/history/h_taisho.html
『大正7年(1918年)モンロー計算機輸入販売。日本及び満州国(当時)の総代理店となる。』という記述があります(写真はありません)。 『電卓博物館』の機械式計算機のページ

http://www.dentaku-museum.com/hc/computer/mechanical/mechanical.html
モンロー計算機だけではなく、沢山の写真あり。


【計算尺】 

 
円形計算尺

計算尺は正確に刻み込まれた2枚の目盛板(実際の目盛はD尺、C尺、CI尺、P尺、P尺の五種類・目盛は対数目盛)を使い、計算をします。

計算尺は棒形タイプのもの(特に逸見計算尺が有名)と円形タイプのものがありますですが、左の写真はたまたま、私の家にのこっていた円形計算尺(コンサイス社製)です。
だいたい、1960年代後半から1970年代前半くらいのものです。

 
左の写真はインチとセンチメートルとの換算を考えたもので、D尺(最外周の目盛)に2.54、C尺(次の目盛)に1を合わせます。

例えば2インチはいくらかを計算してみるとC尺の目盛『2』のところを読めばよいことになります。

このような例ならば暗算でもできますが、答えは5.08センチメートルになります。

その他、平方根や立方根などの計算もできるそうです。







【電子計算機の誕生】

残念ながら写真はありません。







アタナソフとベリーによるABCマシン

アイオワ州立大学教授『ジョン・V・アタナソフ』と大学院生『クリフォ-ド・ベリ-』によって、約300本の真空管からなる世界最初の計算機である『ABCマシン』が1937~1942にかけて開発されました。 







残念ながら写真はありません。
















ENIAC(Electronics Numerical Integrator Computer)

ペンシルベニア大学の『モークリー』と『エッカート』が開発し、完成したのは1946年です。

18800本の真空管が使われ、プログラムは配線方法を変えて行いました。
主に『弾道計算用』に使われました。

電子計算機は最初は軍事目的に開発されたのですね。

重量は30トン、所用面積は165平方m、消費電力は140kWという巨大なものでした。






UNIVAC120

1955年(昭和30年)に我が国に始めて輸入されたコンピュータ(使用真空管数は612本)です。

この年の2月、兜町の東京証券取引所と野村証券に導入されました。

当時の株式ブームで、精算事務が追いつかなくなり取引所の立会い停止が起こるようになりました。
この不都合を解消する目的で本機が導入されました。
『UNIVAC120』の導入により、今までの人手による処理から処理能力が大幅に向上しました。これを契機にコンピュータの重要性が認められるようになっていきました。








真空管式計数型電子計算機
FUJIC


1949年に研究を開始し、1956年に完成した日本初の電子計算機で、富士フイルムの『岡崎 文次』によって作成されました。
使われた真空管の数は1700本だそうです。

この『FUJIC』はカメラのレンズの設計・計算用に使われました。

実際にはアタナソフとベリーの電子計算機が世界初であるが、当時世界初の電子計算機といわれていたENIAC(ペンシルベニア大学のモークリーとエッカートが開発)の完成が1946年です。

海外の情報がほとんど入らないような時代に、アメリカに遅れること10年で、まったく何もない状態から完全に独自の力で完成させた(岡崎文次を中心とした)当時の技術者達のすごさを感じます。




FUJICの真空管部分をアップで撮ってみました。


















磁気コアメモリー

日立製作所製の磁気コアメモリーです。

直径0.5~1.5mmのフェライトコア(小さなドーナツ状の磁性物質)の極性を利用して2つの状態を作れるので0・1の二進数を表現(および記憶することが)できました。

当時としては読込速度が速く、動作が安定していたため主記憶装置として利用されました。








パラメトロンコンピュータPC-2

東京大学・『後藤 英一(当時大学院生でした)』が発明したパラメトロン素子を用いたコンピュータです。
1961年に東京大学で開発されたもので、パラメトロン素子13000個が使用されています。

パラメトロン素子は当時の真空管やトランジスタより安価で安定していたため、このPC-2は富士通のFACOM202として実用化されました。

(写真はありませんが)ちなみに世界最初のパラメトロンコンピュータである1号機(PC-1)は1958年の完成です。




パラメトロン計算機・アレフ・ゼロ

東京大学・『後藤 英一』が発明したパラメトロン素子を用いた大井電機製コンピュータ。













リレー式計算機ETL-MARK II
















ビジコン社製プログラマブル電卓

ビジコン社は、種々の仕様の電卓にプログラムの変更だけで対応できるプログラマブルな電卓チップが必要になり、その開発を1969年にインテルへ発注します。

今でこそ、巨大企業のインテルですが、この当時の従業員は100名足らずだったそうで、この開発には、ビジコン社から出向した『嶋 正利』とインテル側の3人でのプロジェクトでした。



インテル・ミュージアム(ホームページ制作:インテル株式会社)へのリンク
『マイクロプロセッサの歴史』、『マイクロプロセッサのできるまで』、『マイクロプロセッサの働き』、『トランジスタの仕組み』、『インテルの歩み』、『インタラクティブヒストリー』という6つの構成で、わかりやすく説明されています。

特に、最後の『インタラクティブヒストリー』は、クイズに答えながらインテルの歴史を追うことができて、大変楽しいです。

リンク先から、このページへ戻るときにはブラウザの『戻る』ボタンを押して下さい。

インテル・ミュージアム(ホームページ制作:インテル株式会社)へ



インテル4004

マイコン(現在はパソコンという用語が一般的になっている)のCPU(Central Processing Unit : 中央処理装置)はインテル社製のペンティアムⅢまたはⅣが主流であるが、これらのCPUの先祖にあたるものがこの『インテル4004』(基盤中央・最下段の金色の部分)です。

インテル社の人たちと上のプログラマブル電卓を作成しようとしていたビジコン社の社員であった『嶋 正利』が共同で開発したLSIです。

最終製品としては1971年3月完成です。

現在、地球上のありとあらゆるところで使われているパソコン、その中に入っているCPUの最初のものを開発したメンバーに日本人がいることに私は誇りに思います。

追記:
本ページをアップしたところ、ある大学で教授をされている先生より、インテル4004が発売された当時の様子をメールにて教えていただきました。

以下は、その先生からのメールの概要です。


『コンピュータの歴史、楽しく、懐かしく拝見しました。

委託研究費で買った4004を初めて手にしたときのショックが蘇ってきました。
30年も前の事ではっきり覚えていませんが、当時、友人の購入した新車(スバルレオーネ)は30万円ぐらい、4004はその倍ぐらいだったように思います。
ことによると一緒に買ったテレタイプの値段も入っていたかもしれません。』


現在、最新のCPUは発売時、10万円前後のことが多いですが、いずれにしても、当時は本当に高かったのですね。





上の写真では見にくいのですが、CPUの部分のみを拡大したものが左の写真です(写真中矢印の上のチップが4004です)。

二枚上の写真から切り出して拡大しました。

16ピンのチップでバス(データの通り道)は4ビットでした。



インテル・ペンティアム(i586)

ちなみに、もはや使われなくなって、本校・サーバ室内のロッカーに残っていたPentium(120MHzのもの)を見つけましたので、ここに表示することにしました。

2001年現在、主に使われているCPUはペンティアムIIIまたはペンティアムⅣです。

インテル製品以外にはAMD社のアスロンもよく使われています。



インテル4004と比較するとピンの数が16本から296本に増えました。



























TK-80

日本の情報通信機器メーカー『NEC』が1976年に発売したワンボードマイコン・『TK-80』です。

その後、このワンボードマイコンから、PC-6001、PC-8001、PC-8801、PC-9801などのパソコンへ発展していきます。

CPUは、インテル8080互換のμPD8080A、メモリは512バイトです。

アッセンブリー言語を用いてプログラムをすることができる製品です。

私(ホームページ作成者)がパソコンを始めたのが1983年で、前任校にあったシャープのMZ-80Bを使ったのが最初です。
実際にPC-9801(いわゆる無印の98)を始めて自分で購入し、『独学』を始めたのは1984年7月なので、このTK-80を触ったことはありませんが、私より早く始めた先輩方は、これにはまったことと思います。




コモドール社製・PET-2000(PET-2001)

CPUはコモドール独自チップのMSC-6502です。

メインメモリは8KBで32KBまで拡張可能でした。

ディスプレイはモノクロディスプレイです。

ご覧のように、本体、補助記憶装置であるカセットレコーダ、キーボード、ディスプレイが一体となったデザインです。



<<上の写真の出所と説明>>
メーリングリストで知り合った大阪の先生より、送っていただきました。




MZ-80B

シャープが1981年4月に発売した8ビット・パーソナルコンピュータです。
CPUはZ80Aでメモリは64KBでした。
標準の補助記憶装置は左の写真のようにカセットテープレコーダです。
別売りの5インチ(5.25インチ)フロッピーディスクドライブ゙もありました。
当時は色々な周辺機器の価格が高く、このフロッピーディスクドライブの定価も298,000円でMZ-80B本体の278,000円よりも高かったようです。
ROMBASICではなく、カセットやフロッピーディスクからRAM上に読み込ませて利用する形態だったので『FORTRAN』、『BASIC』、『PASCAL』
など必要に応じて入れ替えて使えました。

そのようなわけで『クリーンコンピュータ』などともいわれていました。



<<上の写真の出所と説明>>

PC-9801の写真を探していたにも関わらず、なかなか見つからなかったのですが、このページの制作者が入っている『メーリ ングリスト』のメンバーで、教員をされている方(大阪市立西高校教員・森 喜一郎先生)から、PC-9801と当時の数学部のメンバーの卒業写真(1983年6月頃撮影)を送っていただきました。

出所は『大阪市立東高等学校 1984年卒業アルバム』です。

実際に送っていただいた写真には、その先生が高校生だったときの『部活動の部員達と顧問の先生』が写っておりましたが、私が一人ひとりの方に許諾をとれな いのでトリミングをしたもの(大阪市立東高等学校よりトリミングの写真掲載の許諾済み)を掲載せさせて頂きました。

PC-9801本体の直ぐ左にあるのは『8インチ・フロッピーディスクドライブ』です。

現在、ほとんどのパソコンに付いてくるフロッピーディスクドライブは3.5インチのものですが、最初のフロッピーディスクドライブは8インチのものでした。
その後、『5インチ(正確には5.25インチ)フロッピーディスクドライブ』が出て、暫く5インチの時代が続きました。


3.5インチが出た当初は不安定だったので、暫くは5インチのものを使った記憶があります。
しかし、『軽薄短小』の流れには逆らえず、私も3.5インチを使い始めることになります。

今では、8インチフロッピーは当然のこと、5インチのフロッピーを見たこともない生徒もいることと思います。


話は写真に戻りますが、写真の右端には、上で紹介した『PET-2000(PET-2001)』が写っていますし、左端には、NEC最初で最後の『ハンドヘルドコンピュータ PC-8201』も写っています。

大変貴重な写真を送っていただき、本当に感謝しております。

PC-9801

NECが1982年10月に発売した、16ビット・パーソナルコンピュータです(私が始めて購入したパソコンでもあり、非常に懐かしく思います)。

これ以前のパソコンは、(漢字もあまり自由には使えないような、英数字と半角カナ文字を主体とした)ホビー指向の強いものでしたが、これ以後、ほぼ同時期に各社からビジネス指向のパソコンが発売されるようになります。

CPUは 8086(クロックは5MHz)です。

現在の主流であるペンティアムⅢなどのCPUはクロックが800MHzや1GHz(1000MHz)なので、当時と比較すると160~200倍速くなったことになります。

メインメモリは標準で128KBを搭載してました。

発売当時は巨大なメモリー空間といわれ、640KBまで増設が可能でしたが、現在使われている多くのパソコンのメインメモリは128MBくらいであり、現在の1000分の1のメモリー空間しかありませんでした。

それでも、ホビー機と比較すれば広いメモリー空間でしたし、数年間はメモリ自体も高かったので、しばらく増設はできなかったことを記憶しています。


日本語が簡単に扱えたこと、これまでのPC-8801のソフトが流用できたことなどが関係して爆発的に売れました。
以後10年以上もの間、日本のパソコンの標準機となりました。
















【コラム:
フロッピーディスクの歴史】


右から古い順に8インチフロッピーディスクドライブとメディア、5インチフロッピーディスクドライブ(正確には5.25インチ)とメディア、3.5インチフロッピーディスクドライブとメディアです。

一番右の8インチドライブはNECのPC-9801専用のものです(DiskUnit PC-9881)。

PC-9881の電源はDC電源であり直接本体から取られていました。

専用のケーブルでフロッピーディスクドライブとPC-9801本体とを繋ぐようになっていました。
コネクタ部分は左下の写真のようになっていました。

PC-9801が電源代わりになっているわけです。

次のマシンからは、本体から電源を供給する形を採用しなくなったため、PC-9881を使い続けるためには電源供給用のアダプタが必要となり、そのようなものも発売されました。

















後継機種のPC-9881Kからは電源部を内蔵し、直接コンセントに差し込んで利用できるタイプになりました。

定価ベースで40万円くらいしていましたが、私は1984年くらいに新古品を20数万円で購入しました。
その時には安い買い物をしたと思いました。

5インチ(TEAC FD-55GFR)と3.5インチ(MITSUMI D353M3)
の各ドライブはDOS/V用のものです。

5インチドライブは実売価格で1万円くらいだったように思います。

ちなみに現在、3.5インチドライブは1200円くらいで購入できます。

ドライブの大きさの変化と価格の変化などを意識すると歴史の移り変わりが分かると思います。








PC-DR311

左の2つの写真はデータレコーダです。
NECのデータレコーダPC-DR311というものです。

前述の8インチフロッピーディスクドライブの前はこのようなカセットテープレコーダにプログラムやデータを保存していました。

動作しているときには、ピーッ、ガーッ、ガガッガー、ピーッというような音が聞こえていました。
この音の信号をパソコン本体に送って、それをデジタル信号に変換してプログラムを動作させていました。





下の写真に見える赤・黒・白のコネクタにはそれぞれ<CMT IN> <REMOTE> <CMT OUT>と書かれています。














<<参考>>
<CMT IN>  本体側からデータレコーダに保存する信号が流れてくるところ
<REMOTE>  データレコーダを制御する信号が流れてくるところ
<CMT OUT> データレコーダに家禄されているデータが本体側に流れていくところ


【IBM社のパソコン】 

残念ながら写真はありません。









IBM-PC
1981年にIBM社が発売したパソコンです。

CPUはインテル8088(5MHz)。

メインメモリは64KB。

OSはマイクロソフト社製のPC-DOS。

外部記憶装置としてカセットテープ。


残念ながら写真はありません。









IBM-PC/XT

1983年にIBM社が発売したパソコンです。

前述のPCに外部記憶装置として5.25インチのフロッピーディスクドライブ(2D)。

拡張スロットが増えた。


残念ながら写真はありません。










IBM-PC/AT
1984年にIBM社が発売したパソコンで、現在のDOS/V機の原形となるパソコンでした。

CPUはインテル80286(6MHz)。

メインメモリは512KB(最大16MB)。

補助記憶装置として5.25インチフロッピーディスクドライブ(2HD)。


残念ながら写真はありません。


















IBM PS/2
1987年にIBM社から発売されたパソコンです。

CPUはインテルのi386です。

現在のDOS/V機で使われているマウスやキーボードはPS/2互換互換製品ですが、このパソコンのマウスやキーボードとおなじものが今も使われています。

しかしながら、ソフトウェア的にはATと完全に互換性があります。

また、現在の標準的なフォーマットである2HD/2DDフォーマットの3.5インチフロッピーディスクドライブ(1.44MB/740KB)になりました。



【DOS/Vパソコンの台頭と価格破壊】

1990年に米国製のPC/AT互換機で日本語を使えるOS、PC-DOS4.0J/V(このOSのことを一般的にDOS/Vといいます)がIBM社より発売されました。

発売当初は、日本国内ではNECのPC-9801シリーズが圧倒的なシェアを誇り、あまり注目されませんでした。

しかし、それまでのパソコンで日本語を利用するには、ハードウェアに日本語機能を内蔵したNECのPC-9801シリーズまたはその互換機を使うしかありませんでしたが、DOS/Vは、ソフトウェアレベルで日本語をサポートし(専用のハードウェアが必要ない)、米国製のPC/AT互換機(世界標準規格として認知されていた)で動作したため、海外の安いパソコンが日本市場に流入するきっかけとなりました。

その後、パソコン用OSの標準がWindowsとなったことも普及にスピードがついた原因でもあります。
これまでのDOS上では、ソフトは、パソコンの各メーカー毎に別々に販売されていました。

しかし、Windows上ではハードがDOS/V機(IBM製を始め、ヒューレッドパッカード製、コンパック製など種々メーカーあり)であろうが、NECのPC-9801シリーズであろうが同じWindows用のソフトが動くようになったからです。

日本のパソコンメーカーも次々とPC/AT規格のパソコンを販売し始め、日本でもPC/AT互換機が標準となっていきました。

DOS/V機が普及する以前には、パソコン一台購入するのに50万円から100万円くらいしていましたが、海外製の安いDOS/V機が日本に入ってきてからは徐々に価格が下がり、今では15万円くらいで、かなり性能のよいパソコンが買えるようになりました。

また、特にこだわらなければ10万円以下でも、十分に使えるパソコンを購入することができます。


 
日本では、長い間PC-9801/9821の時代が続きましたが、前述の理由で、今ではDOS/V機のシェアが大半になってきました。

左の写真は本校サーバ室でクライアントとして活躍している自作パソコンです(歴史のページに出すようなパソコンでもありませんが、現在では一般の人でも簡単にパソコンが作れる時代になったということも実感したいと思います)。

基本的にはDOS/V互換機であり、機能不足を感じたら、部品だけ交換すれば最新の機能を維持することが可能です。






【参考文献】
『情報世紀』の主役たち パンフレット 2001.03.05発行

月刊アスキー1993.5月号~1995.6月号スペシャルインタビュー(単行本:計算機屋かく戦かえり1996.11発行)


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